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都岐沙羅城柵は山形県酒田に存在

 史料によると、東北地方では城柵は、磐舟.都岐沙羅.出羽・多賀・ 玉造・新田.牡鹿・色麻・雄勝・桃生・伊冶・秋田・由埋・中山などが存在したtと知られている。 このうち、斉明天皇4年(658)にその名が知られる都岐沙羅城柵は、通説では新潟県内に設置されたという。 私の仮説はそうではなく、酒田の最上川河口周辺であったと考えている。 私の思い付きではあるが、 *Tsuti(つき)+山→都岐+山→月+山→ガツ・ゲツ→ガッ(+山) へと転化していったと考えられないだろうか。とはいえ、この場合の「tsuki」の原義を解明できないままであり、その論拠薄弱であることは言うまでもない。 また「沙羅」の意味にも思いつかないので、根本的な誤りを犯しているだろう。 ①大同元年 (806): 封戸二戸授与 (「大同元年牒」新抄格勅符抄) ②貞観一八年 (八七六) 八月には正三位、 ③元慶四年 (八八〇) には従二位に昇叙 ④「三代実録」貞観10年4月15日条に「飽海郡月山、大物忌両神社前、雨 鏃六枚 」 、 *********************** 【月山神社本宮】 月山は海抜1,984m、世界でも珍しい半円形のアスピーデ型火山で、頂上の「おむろ」に月山神社があり、月読命を祀る。約千年前につくられた延喜式神名帳にのる名神大社で古い時代から朝廷を始め庶民の信仰が篤く、山形市には南北朝時代の貞治7年の銘のある月山結集碑があり、一村百余人の登拝講中のあった事を伝えている。もと東北唯一の官幣大社で、国の殊遇を受けた。 神社は水を司る農業神として又航海漁澇の神として広く衆庶の信仰をあつめている。 月山|出羽三山神社 公式ホームページ

江戸時代酒田商人はすごい

 やはり酒田商人のビジネス能力はすごい 最上紅花を例に挙げて、説明しよう。 その決済方式には創意工夫が盛り込まれ、しかも現実的である。 商売人であれば、古今東西、誰しも ①投下資本の安定的回収 ②最小の資本で最大 利益創出 ③台風など自然災害などのリスク回避 ④物流コスト(船賃・陸送費など)の最小化 ⑤強奪・横領など現金輸送に伴うリスク回避 ⑥「行き荷」と「帰り荷」両方の確保による運送業者と荷主の輸送コスト削減、および持続可能な事業経営 ⑦利益が常に右肩上がりとなるビジネスモデル作り ⑧紅花の生育不良や紅花相場高下などのリスク回避 ⑨北前船が混載を前提とした輸送方式であるために、 尾関又兵衛らの 廻船問屋、他 の異業種とのwinWin関係の構築 ⑩他のライバル業者との競争に打ち勝つ情報ネットワーク構築 ⑪大坂や京に設置した支店もしくは代理店の活用 ⑫北前船の寄港地での売れ筋商品などのマーケット調査、さらにはそこに所在する得意先に対する金融信用調査 ⑬人身・物損などさまざまな事故補償 などに気を配ったはずである。  そこで編み出したのは、下記の商法であった。 1)消費地に設置した支店からの相場情報、売れ筋商品・購買層のニーズ・翌年以降のマーケット予測などのビジネス情報、さらには大坂・京などの販売先の信用度調査 →元文5年(1740)6月の「口上書」に見る通り、最上紅花商人惣代より京都町奉行所および所司代に京在住の紅花問屋を告訴している。その訴状には、京都の紅花問屋が没落したり、 2)消費地からの様々な情報を総合して、稲村家は当年度の自らの生産量および近隣の 山形城下の紅花問屋5人衆(長谷川吉郎治、長谷川吉内、佐藤利兵衛、村居清七、福島屋治助)など からの買い入れ量調整の実施 改訂 最上紅花史の研究: 第三章 紅花商人の成立と発展 3)最上川沿いの紅花集積地において、最上川船頭との輸送価格交渉 4)酒田湊の廻船問屋の倉庫への紅花保管と、紅花の北前船への搬入時期調査、1か月もしくは2か月で消費地に到着する時点での販売先確保。 5)酒田湊の 廻船問屋尾関又兵衛などとの輸送費交渉 → 山形市十日町に店舗を構えた 村居清七家は、7~8 百石積の海船萬福丸を所有していた。 6 )敦賀港で紅花を搬出したときの、保管場所確保。さらには敦賀から京までの輸送法、ルート、業者、輸送...

紅花研究資料「稲村家文書」

  古文書分野 1)山辺町大蕨 稲村家文書 慶長期~明治期 総点数 1,100点 上方との商取引に関する万福帳や紅花仕切書など  村山地方では、江戸時代後期になると都市周辺だけでなく農村部にも紅花商人が現れるようになった。その一人が稲村七郎左衛門である。稲村家は山形に土着した近江商人達と提携し、資本金を出して紅花の運搬などを委託して利を得ていただけでなく、自らも生花を買い集め干し花加工も行っていた。  稲村家文書には上方との商取引に関する万福帳などが多く含まれており、村山地方における商品作物の流通の様子が読み取れる。 2)河北町誌編纂委員会編 『最上紅花史料』 1-3 河北町誌編纂委員会編『最上紅花史料』1-3 (河北町,1993-1997)より。 全文を PDF 画像により読むことができます。下記リンクからご利用下さい。 I 表紙・口絵・目次ほか 一 耕種法 二 流通  1-11   12-17   18-40   41-48   49-53 54-55   56-59   60-63   64-69   70-105 奥付 ( 全体  *19.0 MB ) II 表紙・口絵・目次ほか 堀米四郎兵衛家文書 (  1-27   28-57   58-93  ) 今田修家文書 (  1-40   41-109  ) 槙真司家文書 宇野常義家文書 (  1-9   10-72  ) 逸見彦次家文書 逸見良一家文書 奥付 ( 全体  *16.7 MB ) III 表紙・口絵・目次ほか 日塔久左衛門家文書 (  1-5   6-8   9-10  ) 茂木平十郎家文書 斎藤理久郎家文書 稲村七郎左衛門家文書 山形県郷土館所蔵文書 大沼養之丞家文書 (  1-15   16-36  ) 奥付 ( 全体  *13.4 MB )2) ************** 『山辺町史』 頒布中  新しい資料と写真で綴った町史上・下巻を読むことで山辺町の歴史がわかります。 町史上巻の特徴  山辺町の風土をはじ...

(改定版)山形から全国各地への輸送システムは?ーー羽州村山郡大蕨(山形県東村山郡山辺町大蕨)在の稲村七郎左衛門の事例

 山形の僻遠の地から、全国各地へ紅花を配送するには、どのようなシステムがあれば、いつから、誰の手で、どのようにして可能であったのだろうか。 岩田浩太郎氏の研究によると、 「山形大学附属博物館所蔵の稲村家文書は一三五八点ある。同家は江戸後期に、 商業 だけを とり あげて も紅花を 京・ 大坂へ、 「青そ」を奈良・越中高岡・越後小千谷などへ、蝋を仙台・江戸へ、漆を会 津 へ、 そ れ ぞ れ 販 売 す る 多 角 的 な 活 動 を お こ な っ て い た 。 」 とある。岩田氏によって、寛延三 年 (一七五〇) に京都 紅花間屋 である松任屋徳兵衛 が 稲 村 家 に 宛 て た 紅 花 仕 切状などを丁寧に読み解いた成果である。その労を多としたい。 さて、山形から全国への輸送システムを考える時に、たとえ徳川幕府による主要街道が整備されたとしても、陸路による物資輸送はきわめて限定的でしかありえなかっただろう。羽州村山郡大蕨(山形県 東村山郡山辺町大蕨)在の稲村七郎左衛門が荷車で紅花を 大坂・京への輸送すると考える時、輸送量が極端に少なくて効率が悪く、膨大な輸送コストや輸送人材を要し、さらには輸送中の品質管理などを度外視しない限り陸路による輸送法を採用するに明らかに躊躇したはずである。経営者のマインドが常識的である。 しかしながら理由はそれだけでなかったと考える。  なるほど、高著「紅花とのこぎり商いー豪農の商業文書」の中で、岩田氏が解明したように、 7月初めから終わりにかけて収穫された紅花は8月に入り、 村山郡大蕨から最上川を船で、まずは酒田本町 本町にあった廻船問屋尾関又兵衛らが所有する倉庫に運び込まれた。そこから台風を避けながら通称「北前船」で酒田湊から全国各地に搬出された。 その一連の紅花輸送に関しては、「 紅花屏風」六曲一双部分9.10曲に描写されており、 「 形状: 六曲一双のうち、9.10曲部分 山形から大石田までは陸送、大石田から川舟で酒田まで船下し、酒田で帆船に積み込む。9.10曲中の平田船は大石田川岸場風景、同じく上部は、酒田湊からの積出風景、帆印に[谷](長谷川吉内)、〓(三浦屋新兵衛)[長](長谷川吉郎治)がくっきりと浮んでいる。沖の方までかすんで、続々出帆している紅花の港s肩を表わしていておもしろい。因みに[谷]、[長]に〓(村...

本間家のビジネス成功モデル

 加藤國男氏の研究「 酒田・本間家と米沢藩~「大帳類聚抄」分析を中心として」によると 「(目的) 酒田・本間家の米沢藩との金融取引を、本間家の金融取引明細史料「大帳類聚抄」 本間家の米沢藩との金融取引は1754年から始まる。藩産物を担保とするものなど長 くて1年の短期貸付中心である。当初の金利は年15~18%中心で、本間家の大名貸し は貸倒リスクが小さく収益性の高いビジネスだったようだ。  ・米沢藩改革第1期までの金融取引は、金額は少なく断続的だった。返済も滞りがち だった。取引が活発化するのは、改革第2期以降である。米沢藩が財政再悪化し、長 期化借入の低金利化や永年賦化を強行し多くの金主が離反する中で、短期貸付中心 の本間家は取引を増やしたことになる。 ・第3期改革をすすめる莅戸善政は、財政再建計画を示した上で、2500両の長期借入 を本間家に要請した。本間家中興の祖・3代目光丘はそれに応じ、勧農資金を提案し 提供した。その後も、2度の幕府への手伝い普請に対する計8千両の長期貸付にも応 じ、毎年備籾代を献納するなど奉仕面でも貢献した。」 「宝暦5年の大飢饉」ごろから始まった藩主相手の悪くない商売であり、本間家の財産は激増するばかりであった。藩の財政は大飢饉を機に悪化の一途をたどり、もはや町人に頭を下げるしか、藩政は太刀行かなくなった。 米沢藩に至っては、900両の借金さえも10年繰り延べ返済であつたという。

改訂版)明治天皇と酒田市在住の豪商・渡部作左衛門

以下は、「「天下一の阿呆もしくは幸せ者」の話である。明治天皇に拝謁し、我が家を行在所として天皇にご利用いただく名誉に浴するためだけに、身上をつぶした男の話である。 参考資料 1, 「山形縣行幸記」(山形縣教育會/大正5年1月発行)   2,鈴木 敦史「明治十四年巡幸における奉迎準備と地域社会の対応 ―山形県を事例として 」『東海大学紀要海洋学部』第19巻、13-22頁、2021 ****************** 明治天皇の六大巡幸: ①明治5年(1872)の九州・西国、 ②同9年の東北・北海道、 ③同11年の北陸・東海道、 ④同13年の甲州・東山道、 ⑤同14年の山形・秋田・北海道、 ⑥同18年の山口・広島・岡山、合計6回   明治天皇(1852~1912)は日本各地の巡幸に多くの時を費やしている。明治14年(1881)、北海道・東北巡幸が行われた。 山形県には明治14年9月22日から10月3日まで滞在し県内各地を回った。巡幸の供奉員は北白川宮能久親王・左大臣有栖川宮熾仁親王、参議大隈重信、参議大木喬任、宮内卿徳大寺実則ら文武官員約320名余である。他に参議・黒田清隆、内務卿・松方正義以下20余名が先発官として先行し、さらに三島県令はじめ県官、巡査、人夫らを加え、総勢1000名以上の一大パレードであった 。 明治天皇は大元帥服の姿で丹塗馬車に南面して乗車し、徳大寺宮内卿が陪乗した。 酒田には9月25日に来臨なさった。行在所は本町の渡部作左衛門の邸宅であった。 本稿の筆者注釈:   ①  渡辺作左衛門(天保6一明治16)。米相場で巨万の富を蓄える。 ②本町六丁目にあった廻船問屋尾関又兵衛の家屋敷を買収。また 亀ケ崎城の跡地を買収して牧場を経営。 尾関又兵衛は酒田港を拠点とした坂田一の海商であった。 ③行在所となった翌年の明治15年に、渡辺氏は破産。そして失意の内に、明治16年に死亡、 ①酒田では福島地方裁判所酒田支庁や琢成学校を視察し、行在所を務めた渡辺作左衛門には赤白縮緬、御紋付三ツ組銀盃などが下賜され、 有志者、郡吏、村吏、教員の方々にも下賜金が与えられた。(引用文献 酒田市『酒田市史 改訂版』) ②埼玉県 幸手宿 右馬之 助 町(現 幸手市中1丁目)の中村家に、 御紋付三ツ組銀盃が保管されている。しかし、同品かは不明。 ③明治14...

酒田のかゆずし

  酒田のかゆずし >> 山形県酒田市の郷土料理で、かゆ状のなれずし。 「熱い飯にこうじを混ぜてから冷まし、酒、塩を加えて、細かくちぎった鮭(さけ)の肉、砕いた数の子、のり、にんじんなどを混ぜあわせ、かめに数日間ねかせたものです。」 https://oisiiryouri.com/kayuzushi-imi/