(改定版)山形から全国各地への輸送システムは?ーー羽州村山郡大蕨(山形県東村山郡山辺町大蕨)在の稲村七郎左衛門の事例
山形の僻遠の地から、全国各地へ紅花を配送するには、どのようなシステムがあれば、いつから、誰の手で、どのようにして可能であったのだろうか。
岩田浩太郎氏の研究によると、
「山形大学附属博物館所蔵の稲村家文書は一三五八点ある。同家は江戸後期に、 商業 だけを とり あげて も紅花を 京・ 大坂へ、 「青そ」を奈良・越中高岡・越後小千谷などへ、蝋を仙台・江戸へ、漆を会 津 へ、 そ れ ぞ れ 販 売 す る 多 角 的 な 活 動 を お こ な っ て い た 。 」
とある。岩田氏によって、寛延三 年 (一七五〇) に京都 紅花間屋 である松任屋徳兵衛 が 稲 村 家 に 宛 て た 紅 花 仕 切状などを丁寧に読み解いた成果である。その労を多としたい。
さて、山形から全国への輸送システムを考える時に、たとえ徳川幕府による主要街道が整備されたとしても、陸路による物資輸送はきわめて限定的でしかありえなかっただろう。羽州村山郡大蕨(山形県東村山郡山辺町大蕨)在の稲村七郎左衛門が荷車で紅花を大坂・京への輸送すると考える時、輸送量が極端に少なくて効率が悪く、膨大な輸送コストや輸送人材を要し、さらには輸送中の品質管理などを度外視しない限り陸路による輸送法を採用するに明らかに躊躇したはずである。経営者のマインドが常識的である。
しかしながら理由はそれだけでなかったと考える。
なるほど、高著「紅花とのこぎり商いー豪農の商業文書」の中で、岩田氏が解明したように、7月初めから終わりにかけて収穫された紅花は8月に入り、村山郡大蕨から最上川を船で、まずは酒田本町本町にあった廻船問屋尾関又兵衛らが所有する倉庫に運び込まれた。そこから台風を避けながら通称「北前船」で酒田湊から全国各地に搬出された。
その一連の紅花輸送に関しては、「紅花屏風」六曲一双部分9.10曲に描写されており、
「形状: 六曲一双のうち、9.10曲部分 山形から大石田までは陸送、大石田から川舟で酒田まで船下し、酒田で帆船に積み込む。9.10曲中の平田船は大石田川岸場風景、同じく上部は、酒田湊からの積出風景、帆印に[谷](長谷川吉内)、〓(三浦屋新兵衛)[長](長谷川吉郎治)がくっきりと浮んでいる。沖の方までかすんで、続々出帆している紅花の港s肩を表わしていておもしろい。因みに[谷]、[長]に〓(村居清七)〓佐藤利兵衛、𠆢福島治助の五店は紅花五人衆で、沖の方に五人衆の[谷]、[長]以外の帆印が見えている筈である」
酒田湊を出帆した船は敦賀に至り、そこから陸路で大津経由で京に、あるいは敦賀-下関ー瀬戸内海経由で船で大坂に持ち込まれたとある。
岩田氏は自明な事柄なのであえて言及しないが、全国で販売された紅花代金は翌年3月から始まる北前船の酒田行きにてその現金を輸送すればよかったはずである。しかしながらオンライン決済方式の現代であれば、すぐに京・大阪で販売された紅花代金は山形県鳥海山麓の稲村家の銀行口座に振り込まれるが、問題は江戸時代のこと。たとえ紅花の売上代金が即時に山形に届いたとしても、山形で上方で流行する品々を購入できない。
そこで編み出された決済方式には創意工夫が盛り込まれ、しかも現実的である。
商売人であれば、古今東西、誰しも
①投下資本の安定的回収
②最小の資本で最大利益創出
③台風など自然災害などのリスク回避
④物流コスト(船賃・陸送費など)の最小化
⑤強奪・横領など現金輸送に伴うリスク回避
⑥「行き荷」と「帰り荷」両方の確保による運送業者と荷主の輸送コスト削減、および持続可能な事業経営
⑦利益が常に右肩上がりとなるビジネスモデル作り
⑧紅花の生育不良や紅花相場高下などのリスク回避
⑨北前船が混載を前提とした輸送方式であるために、尾関又兵衛らの廻船問屋、他の異業種とのwinWin関係の構築
⑩他のライバル業者との競争に打ち勝つ情報ネットワーク構築
⑪大坂や京に設置した支店もしくは代理店の活用
⑫北前船の寄港地での売れ筋商品などのマーケット調査、さらにはそこに所在する得意先に対する金融信用調査
⑬人身・物損などさまざまな事故補償
などに気を配ったはずである。
そこで編み出したのは、下記の商法であった。
1)消費地に設置した支店からの相場情報、売れ筋商品・購買層のニーズ・翌年以降のマーケット予測などのビジネス情報、さらには大坂・京などの販売先の信用度調査
→元文5年(1740)6月の「口上書」に見る通り、最上紅花商人惣代より京都町奉行所および所司代に京在住の紅花問屋を告訴している。その訴状には、京都の紅花問屋が没落したり、
2)消費地からの様々な情報を総合して、稲村家は当年度の自らの生産量および近隣の山形城下の紅花問屋5人衆(長谷川吉郎治、長谷川吉内、佐藤利兵衛、村居清七、福島屋治助)などからの買い入れ量調整の実施
3)最上川沿いの紅花集積地において、最上川船頭との輸送価格交渉
4)酒田湊の廻船問屋の倉庫への紅花保管と、紅花の北前船への搬入時期調査、1か月もしくは2か月で消費地に到着する時点での販売先確保。
5)酒田湊の廻船問屋尾関又兵衛などとの輸送費交渉
→山形市十日町に店舗を構えた村居清七家は、7~8百石積の海船萬福丸を所有していた。
6)敦賀港で紅花を搬出したときの、保管場所確保。さらには敦賀から京までの輸送法、ルート、業者、輸送費などの確認。
7)近江商人の支店が山形に設置され、山形の商圏や市況を確認するとともに、最上や荘内地域などにおける安定的な人間ネットワークを構築し・維持し、相互監視。
8)すべては近江商人の才覚で、山形ー京ー大阪3地点におけるビジネスモデルを創出して、「利益の最大化と損失の最小化」を図る営業活動の実施
9)生産地・地場産業と運送業者・金融業者・小売り業者などの業務連携
10)アドバイザー役、つまり生産者や運送業者、さらには卸売業者・小売業者などが直面するリスクに対して、適切な解決方法やビジネス戦略などを提供。1円でも多い利益収入、1円でも少ない損金発生防止にアドバイスをしながら、各地の商人の健全な組織の成長をサポートし、そして各組織の競争力を高め、経営者の後継体制を作り上げるに、近江商人の役割は大であった。
以下は、未完
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幕府領米積出船の日数-天保6年(1835)
- 船 主 乗組員 大坂出 酒田着 酒田出 赤間関着 品川着
1.大坂 江戸屋正三郎 19人 3/14 4/9 5/5 5/10 6/7
2.大坂 木津屋平兵衛 20人 2/29 3/晦 4/26 5/8 6/18
3.大坂 金芳屋作助 19人 2/25 4/9 5/9 6/2 6/23
4.大坂 江戸屋正三郎 18人 2/28 4/13 5/19 6/5 6/25
5.芸州 因ノ島政蔵 19人 3/8 6/1 6/16 7/6 8/1
6.摂州 御影徳蔵 22人 2/28 4/23 6/15 7/5 8/晦
赤間関…下関の古称
『酒田市史 改訂版』上巻より
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