酒田へ行ったならば、大石田で蕎麦を

酒田へ行ったならば、その足で大石田に行くのも一興。約70キロ、車で1時間。


「五月雨やあつめてはやし最上川[

この句は、有名な松尾芭蕉の『奥の細道』収載である。

しかしながら、芭蕉に同行した門人曽良の旅日記によると、芭蕉は元禄2年(1689年)5月28日に大石田に到着し、同月29日、30日と滞在し、大石田の俳人たちと句会を開き、その句会の発句として芭蕉は、

☆五月雨を集めて涼し最上川

と詠んだので、教科書で学ぶ俳句と一単語異なることに気づくだろう。

☆早し←→涼し

どちらが良いか専門家に委ねるが、大石田河岸上流には最上川三難所と呼ばれる「碁点」、「隼」、「三ヶ瀬」がある為、芭蕉の句はその3つの難所を念頭に置いているかもしれない。

さて、江戸時代、大石田は最上川舟運最大の中継地でした。

元禄の頃にもっとも賑う。最上川舟運の中枢となり、また、大石田町一帯は天領と寛政4なったので、寛政4年(1792)に幕府は舟役所を置き、船運を管理した。

陸路によって山形県内陸部に物資を運んだり、あるいは大阪など関西で仕入れた品物は北前船で酒田港に入り、最上川舟運によって大石田へと輸送された。そして仙台城下へ陸路で運搬された。その昔、「天下の台所」と称された大坂の品々を、東海道や東北道などではなく、やはり酒田経由の北前船が確実に、しかも大量に運送できたことは興味深い。

なお、大石田周辺で栽培された紅花にも言及しておきたいが、幸いにも山形県紅花生産組合連合会HPに適切な紹介はあるので、それに代えたい。

〈山形の地で大きく花開く〉

 いまの山形県の地域に紅花が入ってきたのは室町時代末期と考えられていますが、江戸時代の中期を境に、最上川流域(出羽最上)で急速に栽培が拡大していきました。享保年間(1716〜1736)のある記録によると、全国の出荷量は1,020駄で、出羽最上はそのうち415駄を出荷していました(1駄は32貫=120kg)。とくに1800年前後からの100年間は、最上川の舟運を通じて、近江商人と山形商人が活躍し、「最上千駄」と言われるほど発展しました。

 最盛期の幕末・文久(1861〜1864)のころには、舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に集まった紅花は1,550駄に達したと記録されています。なお、これらの出荷量を前提にすると、800〜1,523haの作付け面積があったと推計されています。

 また、日本の特産物の番付を決めた「諸国産物見立相撲番付」では、東の関脇が「最上紅花」で、西の関脇が「阿波の藍玉」とされていました。これが江戸時代の二大染料だったわけです。」

紅花栽培の歴史と現状|山形県紅花生産組合連合会 (nmai.org) 2024年2月1日アクセス


ところで、大石田のそばの紹介を失念した。

大石田そば街道は有名だが、その中でも、


そば切り 源四郎

DATA
 住所 大石田町大字次年子149
 電話:0237-35-6307
 営業時間 11時00分から16時00分
 定休日 木曜日(祝日は営業)


を紹介するのは、キジ汁が絶妙な味だからである。好き嫌いもあろう。が、なによりも主人の心意気が良い。



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