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背景、矢口明子市長殿ーー酒田市の魅力を伝える外国語HP、SNSを

  拝啓、矢口明子市長殿 *提案1:酒田市の魅力を伝える外国語HP、SNSの拡大 この数週間、欧米各国・中国・韓国・東南アジア各地の酒田に触れたサイトを探し求めましたが、残念ながら多くを発見できません。  提案2:外国人旅行客自身が制作した動画コンテストの発案 かって、ニセコがそうであったように、オーストラリア人同士の動画でニセコ情報が拡散して、今に至っています。二番煎じと言われようと、酒田市HPで公募型コンテストしてはどうでしょうか。  今後、英語のみならず、中国語や韓国語・タイ語などのHPを積極的に制作によって、海外観光客の招致に努め、観光客数の拡大の一助としていただきたい。 ただし、その時に重要なことは、酒田市自らがPRしたいのではなく、国内外から訪れた観光客自身が他の観光客へ推奨したい(「おすすめ度」)の高いアイテムを取りそろえることです。 なお、庄内空港への韓国からの空路開設に向けて、韓国の LCC 社に勝手に打診したことがあります。その回答の一つとして、韓国語版酒田観光HPやパンフレットの無さがありました。「韓国民、誰も知らないところに旅行しますか」と。PR不足を痛感しました。  なお、県庁を中心として県全体で東南アジア各地での観光キャンペーンを推奨します。特効薬はなく、一歩一歩、汗をかいていくしか方法はありません。

拝啓、矢口明子市長殿ーー酒田市中通り商店街振興案

 拝啓、矢口明子市長殿 *要望:酒田市中通り商店街振興案 に関して 酒田市中通り商店街のHPには、江戸時代の豪商として、有名な本間家のほかに、 鐙屋(あぶみや)や二木家などが知られていますが、 「このうち鐙屋は、井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介される豪商であった。江戸時代中期の回船問屋は本町通りを中心に97軒、蔵には200万両分の物資が詰まっていたという。 激しい時代の流れの中でも伝統を守り続けている家としては、鍛冶町で鍛冶職を続けている池田多四郎家、中町で海産物を商う越島三郎治商店、500年前に滋賀県から来て本町で薬屋を開き、現在、中町三丁目にある伊庭屋(いばや)薬局の川島家、同じく三丁目の萬谷商店も江戸期からの瀬戸物店で、越前屋以外にも越中屋・越後屋・近江屋・美濃屋・加賀屋など、出身地の屋号を持つ商店が直接、あるいは一旦出店を開き、その後店を張るなどした例が多かったのは、その進取の風土を語っており、伝統の系譜は今なお脈打っている。」(酒田中通り商店街HP  中町り商店街の歴史 | 酒田中通り商店街振興組合 (sakata-nakadori.jp) とあります。  私自身の怠慢を棚に上げて、「酒田36人衆」の現在を調査しないままですが、この「酒田36人衆」を前面に打ち出して、酒田観光の目玉に作り上げられないかと提案します。つまり「酒田36人衆と北前船」キャンペーンです。 少なくとも、中通り商店街振興策の一つとして 「商売繁盛・家内安全:酒田36人衆スタンプラリーー酒田の魅力を新発見」 は企画なさっても良いのではないでしょうか。即身仏で知られている海向寺が終点ですので、家内安全もキーワードに含めても、罰は当たらないはずです。もう少し交通の便が良ければ孫酒造資料館も 訪れてみたい場所です。それに合わせて街づくりに着手していただきたい。 中通り商店街HPが誇る「 商店街の再編のため、アーケードが特徴的です。 ~セットバックとショッピングモール~」といくら声を大にしても、それは地元住民にもアッピール効果はないでしょう。その視点は中通り商店街ご自身の内向きのガラパゴス的発想の産物だからです。セットバックでショッピングに行くでしょうか、そしてそれを目指して国内外から観光客が押し寄せるでしょうか。賢明な矢口市長であれば、

拝啓、矢口明子市長殿ーー東北公益文科大学の公立化推進

 拝啓、矢口明子市長殿 今回の要望は、 *東北公益文科大学の公立化推進 です。 矢口明子市長殿ご自身が東北公益文科大学に奉職なさった時から、その長所と短所を鋭く分析なさっておいでであろうと愚考します。再言しません  もちろん長所は、大学の目指す道が「公益人養成」である宣言されていることです。このKey Wordは日本で唯一です、このユニークさ、そして独創性は高く評価してよいと思います。 、  ここで、現在の東北公益文科大学の研究発信力や人材養成力などの現時点での採点は、矢口市長が最も的確にできるはずですので、割愛します。    私が矢口市長へ提言したいのは、 1)「文系/理系」の壁を取っ払い、「文科」の看板を下ろして「東北公益大学」へと変貌することです。 ⇒日本の 大学で一般的に「自然科学と人文・社会科学」の二つのカテゴリーで学問分野を区別してきましたが、その限界は市長自身が良くご理解なさっている通りです。東北公益文科大学のような小規模大学では、積極的に「文系・理系」の壁を取り外し、「越境する仕組み」を導入してはいかがでしょうか。文理横断・融合という用語は格別に新しくはありませんが、九州大学共創学部HPにある「 複数の専門領域を結びつけて課題解決の知へとつなげる協働知創造」などの改革も大規模大学ならばいざ知らず、小規模の東北公益文科大学レベルの規模では必ずしも容易ではありません。  しかしながら、 文部科学省中央教育審議会が2022年6月以来、積極的に議論を重ねてきたように、 「STEAM(科学、技術、工学、芸術、数学)教育」とデータScience教育を必修化することは時代の流れでもあります。 2)公立化へ加速すること この点も、矢口市長にとって「釈迦の耳に念仏」でしょうから、多言は避けます。「 to pour new wine into old wineskins 」だとのみ、申し添えます。

酒田といえば

  その昔、西日本に育った私にとって、酒田が日本地図のどこに位置するかも知らなかった。唯一、中学校時代の社会の時間に、先生が *『 本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』 という戯歌を教えてくださったのを思い出す。  日本でも屈指の豪商が酒田にいたらしいとその戯歌はなんのために中学生に教える必要があったのかは記憶にない。江戸時代に資本主義の萌芽があったためとは、後日の付け焼刃の知識に過ぎない。あるいは大東亜戦争敗戦直後の農地解放で没落した地主の例であったかもしれない。

拝啓、矢口明子市長殿ー提案:酒田市立酒田看護専門学校を東北公益大学に移管し、四年制看護学部設立へ

 拝啓、矢口明子市長殿 提案:酒田市立酒田看護専門学校を東北公益大学に移管し、四年制看護学部へと昇格すべし 残念ながら、時代は専門学校ではなく、受験生は四年制大学看護学部での勉学を求めています。  酒田看護専門学校の 酒田市立酒田看学校長 中村美穂(Miho Nakamura)先生の挨拶は、受験生に魅力がないのは、受験生の立場での視点ではなく、単に看護師の立場だからです。これでは、他の専門学校、もしくは四年看護学部へ流れてしまいます。  同校HPの写真に見る実習施設にしても、博物館から収集してきたかと首を傾げざるを得ない旧態依然の姿。予算不足だとしても、多くの看護師養成施設で導入している最新設備、例えばシミュレーション教育機器などが見当たりません。想像するに、中村学校長を始めとする歴代の学校長は何度となく酒田市長への陳情を繰り返したはずですが、その度に市長の口からは、「予算がない」とか「もう少し我慢してほしい、近いうちに考えるから」と宥められてきたことでしょう。 このままでは、酒田看護専門学校は定員未達状態が継続し、自然に淘汰される運命を辿ること必定です。地域医療の充実には、実践力のある優れた看護師の養成は不可欠です。加えて、何事にも「めげない」心を涵養しなくてはなりません。そして地元酒田を愛する医療人を輩出しなくてはなりません。酒田から看護師養成の教育機関を消滅させてはなりません。そして酒田へ看護師養成教育機関を目指して、他地域から大挙押し寄せるようにしなくては、酒田市の人口は増大しません。 そのためには、まず、東北公益大学看護学部への移管を提案します。鶴岡市の看護専門学校も2校同時に移管しても良いかもしれません。  明白なデータがあるように、すでに看護師国家試験合格者の割合は看護学部卒が6割を超えています。専門学校卒の看護師の進路は次第に狭まってきます。低賃金労働を強いるクリニックならばいざ知らず、総合病院では看護専門学校卒の看護師の採用は容易でありません。日本海総合病院にしても、長年のお付き合いが無ければ、内心では山形大学看護学部卒などの4大卒看護師を求めているはずです。医療技術の進歩、高度地域医療の確保などにキャッチアップするためにも、すぐにも市長が取組むべき仕事の一つが、四年制大学への移管です。ぜひご検討ください。

拝啓、矢口明子酒田市長殿ーー提案:☆提案:酒田観光のプロデューサー(矢口市長特別顧問)の招聘

  拝啓、矢口明子市長殿 酒田市とはまったくしがらみのない矢口市長だけに、大胆に地域振興策を練り上げておいでだと拝察します。そのフィロソフィーは2024年度予算に反映されると考えます。それを拝見するのが楽しみです。 さて、酒田の観光戦略に一言します。 ☆提案:酒田の観光メガコンテンツは「本間家と酒田36人衆」ではいかがですか? 確かに酒田市には、一般社团法人酒田光物產協会作成のHPが存在し、「酒田さんぽ」と言うコンテンツが掲載されています。しかし、その一貫性のなさは一目瞭然。バラバラに並べてあり、果たして誰が貴重な時間を割いて閲覧してくれるか気がかりなほど見劣りするほどです。歴代の酒田市観光課長の皆様のご努力を評価するものの、なぜか場当たり的でしかありませんでした。 さて、松本市には松本城、仙台市には伊達政宗、伊勢市には伊勢神宮と言ったメガコンテンツがあり、それを目掛けて観光客が押し寄せます。 ところが、先の「お役所仕事」の観光HPのコンテンツでは、何が目玉で、何を目当てに酒田に足向けるのか、観光客の立場でのHP制作とはほど遠いレベルです。ましてや、誰かに推奨したいと思わせませんのは、観光客の胸に感動を与えないからです。「来て、良かった」「また、貯金をして、もう一度行きたい」とか「あの人にもぜひ勧めたい」など。  だからこそ、あのアパホテルも東横インさえも進出する計画を持たないのは当然。そして国民宿舎さえも廃業する始末。 宿泊客がいなければ、夜のビジネスは成立しません。肝心な本格的なホテルがないからです。昼だけの観光では、観光客は通過するだけで、酒田市にお金が落ちないのは当然です。 ☆提案:酒田観光のプロデューサー(非常勤)を矢口市長特別顧問として公募・招聘し、観光戦略の立て直し、コンテンツ開発、プロモーション推進、観光庁予算などの公的補助金獲得活動などを活発化させてはいかがでしょう か。 失礼ながら、矢口市長の経歴では、とうてい無理です。外部から優れた専門家を招き、第三者の視点から大胆な地域観光振興策を策定すべきです。やはり「餅屋は餅屋」。 さまざまな喫緊の課題が山積しています。中町商店街を始めとする商業圏の地盤沈下は見る影もありません。人の賑わいを取り戻し、税収倍々増の手立てに早急に着手しなければならないはずです。  思い切って、 「恋が成就する酒田」 といった

酒田へ行ったならば、大石田で蕎麦を

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酒田へ行ったならば、その足で大石田に行くのも一興。約70キロ、車で1時間。 「五月雨やあつめてはやし最上川[ この句は、有名な松尾芭蕉の『奥の細道』収載である。 しかしながら、芭蕉に同行した門人 曽良の旅日記によると、芭蕉は元禄2年(1689年)5月28日に大石田に到着し、同月29日、30日と滞在し、大石田の俳人たちと句会を開き、その句会の発句として芭蕉は、 ☆五月雨を集めて涼し最上川 と詠んだので、教科書で学ぶ俳句と一単語異なることに気づくだろう。 ☆早し←→涼し どちらが良いか専門家に委ねるが、 大石田河岸上流には最上川三難所と呼ばれる「碁点」、「隼」、「三ヶ瀬」がある為、芭蕉の句はその3つの難所を念頭に置いているかもしれない。 さて、 江戸時代、大石田は最上川舟運最大の中継地でした。 元禄の頃にもっとも賑う。最上川舟運の中枢となり、また、 大石田町一帯は天領と寛政4なったので、 寛政4年(1792)に幕府は舟役所を置き、船運を管理した。 陸路によって山形県内陸部に 物資を運んだり、あるいは大阪など関西 で仕入れた品物は北前船で酒田港に入り、 最上川舟運によって大石田へと輸送された。そして仙台城下へ陸路で運搬された。その昔、「天下の台所」と称された大坂の品々を、東海道や東北道などではなく、やはり酒田経由の北前船が確実に、しかも大量に運送できたことは興味深い。 なお、大石田周辺で栽培された紅花にも言及しておきたいが、 幸いにも 山形県紅花生産組合連合会HPに適切な紹介はあるので、それに代えたい。 「 〈山形の地で大きく花開く〉  いまの山形県の地域に紅花が入ってきたのは室町時代末期と考えられていますが、江戸時代の中期を境に、最上川流域(出羽最上)で急速に栽培が拡大していきました。享保年間(1716〜1736)のある記録によると、全国の出荷量は1,020駄で、出羽最上はそのうち415駄を出荷していました(1駄は32貫=120kg)。とくに1800年前後からの100年間は、最上川の舟運を通じて、近江商人と山形商人が活躍し、「最上千駄」と言われるほど発展しました。  最盛期の幕末・文久(1861〜1864)のころには、舟運の中継地であった大石田(現・大石田町)に集まった紅花は1,550駄に達したと記録されています。なお、これらの出荷量を前提にすると、800〜1,523h